TAKE BACK THE HEA(R)T

A Layer under the Layer

完璧主義からの脱却に関する十何度目かの試行 - 1

 

心を平静に保てるだけでは、腹立たしいことに、何も進まない。

 

やらなきゃいけないことが、あるとしよう。

 

普通の人は「まあ、やらないとね」と、多少のぐずりは人によってありつつも、最終的には、やる。

 

しかし、自分は、やれない。徹底的に、やれない。どうしようもない所まで追い込まれて、やっとやろうとする。結果は言わずもがな。

 

この極端な面倒くさがりの裏には、やはり際限のない完璧主義が潜んでいる。

 

自分がやろうと思えば(実際には手を付けないのでやらないのだが)どこまでも時間を掛けてしまい、他のやりたいことに手がつけられなくなることのが容易に想像できるから、結果としてやろうとしない。

 

しかしそれはまったくの、苦行だ。

自分じゃなくてもそんな事、実際にできるわけがない。

 

結局その想像も、ネガティヴに考えた時の想像でしかない。2時間位でちゃちゃっと終われるという想像を(とても苦手な事だが)すればいい。

※まずこの思考に至ることが今までできなかった

 

ならば実際に2時間経ったらその日はキッパリ止めてしまえばいいーーーここまでは何度か実践したものの、大体失敗に終わる、つまり習慣付けられずに終わる。

 

なので、今回は、「2時間で自分が安心する域まで達する用工夫する」。工夫とは、妥協するとか、深追いしない、とかそういう類のもの。

 

自分自身がその作業によって求めている「成果」を2時間以内にできるだけ多く得られる様工夫する。

 

さて、宣言はできた。後はやるだけ。

 

どうだろう。

パニックからの逃げ方

 

これは、例え話なんだけれども、

 

辛い事で頭の中が一杯になっていた時に、

 

唐突に「かつおぶし」を頭に浮かべる。

 

削られた後じゃなくて、削られる前の、乾いた肉塊の状態。

 

この状態のかつおぶしとは、自分と関わりを持つ存在じゃない。

 

つまり、かつおぶしは自分の人生を歩むにあたり重要なものでもなければ、自分を追い詰めようとする放っておくわけにはいかない存在ではない。

 

自分と関わりをもつ存在の数なんかより、かつおぶしみたいなものの方がこの世界にはずっと多い。

 

それを思い出すことで、心が幾分楽になるのだ。

 

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問題は、今までそれを無意識下で実践していたにも関わらず、ほとんどが有効に働いていなかったことだ。

理由は、かつおぶしを思い浮かべるに留まらず、かつおぶし作りに携わる人のことまで深追いしてしまうからだ。

かつおを釣り上げる漁師さん、釣れたかつおを卸売りする業者さん、買ったかつおを乾燥させる職人さん、さらに言えば乾燥されるかつおそのもの……

色んな人(とかつお)が今日も人々にかつおぶしを提供すべく自分の役割を果たしているのに引き換え、自分と来たら……と一周回って振り出しに戻ってしまうのだ。

辛い事が頭の中で一杯になる原因は大抵、やるべきことをやらない、つまり、自分と関わりをもつものについて向き合わないことによるものだ。だからいつまでも自分の役割を遂げない、というかそれ以前に、探さない、それで辛くなる………(だからやるべきことをやれない(以下ループ))

 

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最近、まずそのループを脱する為に、余計な事を考えない、つまり何か頭の中で深追いするタネが、川に流れる大きな桃(中身はやぶ蛇)のようにドンブラコドンブラコ流れてきても、すくって、桃をカチ割ろうとしない事をやっている。これがまあ平静さを保ち続けられる点ではすこぶる有効に働いている。

 

すると連鎖的に、今までトラブル対処の別のアプリケーションとして働いていた「かつおぶし.exe」も正常に働くようになった。かつおぶしの事だけを考えて、それ以上の事を考えずに済むようになった。

 

しかし平静さを保つだけでは事は進まない。面倒くせえ世界だな

実際にやるべきことに手をつける為には、更なる別のプログラムが必要だが、それはまた別のお話し。

 

つづく(かどうかは不明)

 

dig進捗002

おっ今日はすんなり入れそうだなと思ったのも束の間、
SCRAPの発表について色々深追いしてる内に、
「「求める位なら自分で作れ」って安易に言うか普通???!!!???」
とまた一人で勝手にキレてしまい時間ロスになりましたが私は元気です

あとこの記事からMarkdownでの記述に試みてます


ニコニコ動画はいかなる点で特異なのか

「疑似同期」「N次創作」「Fluxonomy(フラクソノミー)」

元記事

テーマ:ニコニコ動画

要旨

ニコ動関連の研究でよく取り上げられる濱野智史氏の著書『アーキテクチャの生態系』からの派生文献。

「疑似同期」はバラバラの時間帯に投稿されたコメント群を再生時間のどのタイミングで投稿したかという時間軸で動画と共に閲覧できることで、あたかも他の視聴者と一緒に動画をリアルタイムで見ているような擬似的な体験を得られるということ。

「N次創作」はある動画の派生作品として別の動画が作られ(ここまでは「二次創作」)、その派生でさらに別の動画が作られ・・・と一つの動画から連鎖的に、コンテンツ創作が行われていく現象のこと(ボカロ曲→歌ってみた→合唱)(例のデレマス合作→BE MY BABY→一人合作→一人合作オールスター)(ほんへ→クッキー☆→登場声優にフォーカスした合作→単品動画/素材配布)。N次創作については、ニコニコ動画(とその関連サービス)特有の現象とされ、同じ動画サイトであるYoutubeでは二次創作は起きてもN次創作は起こらないと濱野氏は比較されている。その理由としては、「海外では、日本に比べてオタク文化・同人創作文化がそれほど強くは根づいていない」からだと考察されている。 この理由の補強として使われているのは東浩紀氏の「データベース理論」。

しかし、ニコニコ動画の普及以前に数百万人単位もの日本人がYoutubeを使っていた。にも関わらずYoutubeではN次創作は起こらなかった。
そうなると、ニコニコ動画の環境設計(アーキテクチャ・デザイン)にN次創作が芽吹いた土壌を見出すことができそうだ。

ということで3つ目の概念が「フラクソノミー」。濱野氏が従来から使われている「フォークソノミー」を元に新たに提示した概念である。

ニコ動のタグ機能はご存じのように、投稿者も視聴者も自由に新規タグの作成、既存タグの編集・削除ができる仕様として使われている。しかしタグはまったく自由に付け替えできるものではなく、投稿者に権限として与えられたタグロック機能によって整理やアクセス数増加に必要なタグを保護することができるようになっている。また、タグは無尽蔵には増やせず、最大でも10個までと決められている。

このような上限数と保護枠の設定といった制約は、タグの編集合戦が起きた際により有益なものが残るよう、淘汰を起こすためではないかという別の文献の指摘がある。

(ちなみにタグ機能というものは2000年代中盤(「Web 2.0」)以降に多くのサービスで実装されるようになった比較的新しいものである。)


・・・ちょっとこの文献までフラクソノミーについて続くけど量子力学の域に入っちゃってるのでこの辺で・・・

dig進捗001

ぼちぼち読んだ論文のレビューをさせていただく。(ヒテリス並感)

「今更?」うるせぇしばくぞ

 

傍観者をも巻き込む CGM ――ニコニコ動画の事例から

seijo.repo.nii.ac.jp

テーマ:ニコニコ動画

要旨

wikiナレッジコミュニティ(例:appleのフォーラム)などの旧来のCGMではすべての閲覧者が等しく参加できるかといえばそうではなく、積極的な発言者と純粋な閲覧者に二分されていた。後者が何か感想を発することができたとしても、前者間の議論の争点にそれが関係してなければ「外野の意見」として議論に加わることができない。

それを動画上に流れるコメントや編集可能なタグとして拾い、全ての閲覧者の総参加を可能にしたのがニコニコ動画である。

旧来のCGMと(新しいCGMの代表例としての)ニコニコ動画を、参加者の包括性という軸で比較した論文(というより「研究ノート」)。

 

旧来のCGMはコミュニティを設置する管理者・記事投稿を行う投稿者・発言や編集に参加しない、あるいは記事へのコメント程度に参加が留まる純粋な閲覧者というふうに、ユーザ役割は分離されている。

(この中で「SNSCGM の機能を複数組み合わせて成り立っているので,SNS 単 体のユーザ行動と役割の分類は出来ない。」という記述があり、興味深い。)

ここで挙げられているのはwiki、ブログ、口コミサイト、初期の動画サイト。

いずれも作成されたコンテンツにコメントを添える程度の干渉機能は付随している一方で、それが元のコンテンツそのものを変化させる作用は持ち合わせていない。閲覧によるアクセス数の増加といった行動も同様である。

 

一方ニコニコ動画は、閲覧者の使うコメント機能、投稿者の使うタグ機能を、それぞれその役割を曖昧にさせる仕様にしたことで旧来のCGMと自らを差別化した。

投稿されたコメントが投稿時間という時系列に基づき、ユーザーが視聴する動画の「上」に直接流れる機能が異なる時間で見る閲覧者同士に擬似的なリアルタイム視聴体験をもたらしている他、投稿者が動画投稿後に補足やあるいは視聴した閲覧者同士のコメントでのやり取りへの参加をするという形でコメントを投稿することができる。

一方タグ機能では本来動画群の整理に用いられるメタデータとしてのタグが閲覧者のタグ編集によってさながら書籍の帯の如くその動画のコピー文が作成されたり、実際に視聴していないとその意味がわからないネタ的なタグが付与されることもある。対して投稿者は自分の動画がより多くアクセスされる為にジャンル名等の整理用のタグを付与、閲覧者に編集されないようそのタグを保護することができる。

 

しかしニコニコ動画にも、ご存じのとおり排他性を多分に含めている。

閲覧者は自由にコメントできるように見えて、その動画の「空気」に合ったコメントをするよう求められている。「空気」に合わないコメントには非難が集まることもある。そしてそのような「空気」に合ったコメントは、その動画群に馴染みのない人々に強烈な違和感を覚えさせることもしばしばで、適切なコメント投稿の為には、ニコニコ大百科の該当する記事や、そのコミュニティのwikiの閲覧によって「勉強」する必要を迫られることがある。(これが2chだと「半年ROMれ」ということになる)

ニコニコ動画含む今後のCGMには、すべてのユーザにできることを自由にするだけでなく、過剰な身内意識をもたせないコミュニティ形成が今後の課題となっていく。

 

 

・・・・・・あ~こういう研究してぇ~

wikiを研究対象・・・・・・いいねぇ~(語彙力の低下)

いやすればいいんだけどね

でもこれ研究論文じゃなかったね

あとちょっとニコ動の説明の箇所で僕の言葉で説明しようとしてる時点で要旨になってないねやばいね

お悩み自問自答

「何か作業やってる最中に派生する考えが止まらなくなって作業の手が止まっちゃうんですっ><」

 

「たとえば?」

 

「卒論の為にある論文読んでるんですけど、読みながら頭の中でも考え始めちゃうんですっ><」

 

「建設的に考えを広げられるなんて、いいことじゃないか」

 

「結論が出る前に頭のキャパ超えちゃってオーバーヒートしちゃうんですっ><」

 

「……まぁ、何の為にその論文を読んでるか、という最初の目的を忘れないことだね…、そういう癖を自分の持ち味として肯定ばかりするのもよくないよ。」

「時折、無秩序に褒める」ということ

「自分の思い描いた通りに実際の行動を合わせてしまうこと」を心理学用語で何て言うんだっけと過去のブックマークを漁りながら、またこれを再読していた。

自分で自分をいじめる習慣 ( メンタルヘルス ) - 気づいたこと日記 - Yahoo!ブログ

「自分で自分をいじめて(責めて)しまう」習慣を子供の頃から持っていたという著者には非常に共感している一方で、著者を取り巻く大人達というその環境については今ひとつ共通性を感じられなかった(自分の親の話はまた長くなるので割愛)が、その大人達の子供へのコントロールについて、著者はこのように説明する。

 

たまに褒める。非難する回数の方が多い。でも、たまに無秩序に褒める。子供は、
その「たまにもらえるご褒美」に中毒になるのである。そのご褒美は、一貫性はなく
大人の気分次第であるが、そこが、コントロールの重要な点である。この法則を
知っているのか、それとも無意識なのか、天性の物なのか知らないが、私の周りには、
なぜか、こんな大人ばかりだった。

 

「たまに無秩序に褒める。」

これを改めて読んだ時、少しゾッとした。

そのようなコントロールのされ方を自分は受けた記憶がある。

そしてさらに、目下の子に対して同じことをやっていた記憶もある。勿論それは、自分にそのようなコントロールを施した大人を真似をしていたのだ。

具体的な記憶はすぐに出てこない。だけども一度ならず、何度もしたという記憶の群れが、湧いてきた。

 

そういうことがあったので、ちょっとここに書き留めておく。今回も特にオチはなし。

「自分より楽しみ方が上手い人がうらやましい」

 

「この前のBattle Train Tokyo行けなかったし行きたい」

「幡ヶ谷とかいう中央線と井の頭線に挟まれたモヤモヤする区域行ったことないから行ってみてぇ」

の2つの動機が重なり、行ってました。

大体何処かに行こうとする時は「一つの強烈な動機」か、「2,3こ以上のぼんやりした動機」がある感じが多いです。そうじゃないと行きたい所なんて無尽蔵にあるだろうから。

今回のイベントは、Kentさんも参加するJule/Footworkレーベル"MIDNIGHT CULT"の新譜リリースパーティとジン(同人誌とほぼ同義)の配布を兼ねたものでした。

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会場は幡ヶ谷駅から1分ほど歩いた裏道のビルの地下一階で、階段を降りた先の入り口前はちょっとくたびれた感じで、入るのにちょっと勇気が要りました。

定刻になり、中に入ると10m四方のコンクリート打ちっ放しの空間に、タバコの煙が漂っていて、普段行くライブハウスやクラブとは随分様子が違い、最初は戸惑いました。何よりも開始当初はスタッフ以外ほとんど人が居なくて、最初の観客は自分だったのでは?と思う位です。(最終には30人ほど詰めかける賑わいになりました)

配られていたジンは馴染み深い薄さの本です。感性溢れるコラージュ作品や今回のイベントの主役のWeezyのスナップ風フォトグラフィーが誌面を占め、最後に新譜の"Birth"に関するWeezy氏のセルフレビューが添えられています。新譜のタイトルはKentさんのお子さん出産を祝ってとのこと。改めまして、おめでとうございます。

Jukeイベントのつもりで参加しましたが、掛かるジャンルはJukeも含め、ハウスありロックありと割と各々のDJのやりたい放題感がありました。

中盤からはFootworkバトルが勃発。1vs1で交互に約3セットダンスし、観客のジャッジによって勝敗が決まります。Weezy氏はトラックメイカーであると同時にダンサーでもあり、KATA FOOTWORK CLUBリーダーのTAKUYA氏相手に自らバトルに参加するものの、ジャッジはTAKUYA氏に向けられました。

その後はそのままWeezy氏のDJ、KΣITO氏の実機ライブと続き、21時が過ぎた所で、未だ続く中Kentさんとちょこっとお話ししてからぬるっと退場してきました。

2.5DのJuke It Down以外では初めての単独Jukeイベントでしたが、以前より聴いたJukeの曲数もそこそこになってきたのも相まって楽しかったです。これでちゃんとFootworkできればより良いに越したことは無いんですが…

ちなみに、幡ヶ谷から新宿方面に一つ戻った駅が初台という所で、明日明後日と続く謎解き界隈では最大規模の謎解きイベント「ナゾガク」が行われます。日曜は相変わらず道玄坂なので、月曜の15時以降、1000円の「放課後チケット」なる当日券が売り出されるあたりに行ければと思います。

いや、楽しいですね、やっぱりこういうのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、実際にやるまでは確実に楽しいかどうかはわからないけど、知らない所に行ってみるというのは。

 

そういうことをしてる自分が、好きです。

 

しかし、時々それが揺らぐことがあります。

そのタイミングがよりにもよってMIDNIGHT CULTが終わった後の帰り、ツイートサーフィンをしてる最中に起きました。

僕自身ツイッターを大分変な使い方してるので詳しい経緯(ヒントだけ言うと、「Tap Masayoshi Iimori」でツイート検索していた)は省きますが、自分と似たような趣味を持ち合わせてる人(全然知らない人)で、すげー趣味に没頭しまくってるツイートをしてる。リツイートも趣味に沿った(つまりただのネタツイートのRTじゃない)面白いものばかりをRTしてる。

なんかすげえ楽しんでる、羨ましい、と、思ってしまったんですね。

それに合わせ、例の突然のボイス実装に沸く人達のツイートとか見てると、

「………変にあっちこっち手出さないで、あの人達と一緒になって共通のコンテンツを楽しんでるのが確実に幸せなんじゃないのか?」

とか考えてしまいました。

そうなると、自分のやってること(とは言いますが向こうもこっちも、同じ「消費活動」をしてるだけですがね)って一体…と心の中が空っぽになっていく感覚がまた襲ってくるわけです。

それはまずいと思い、こうやって今日の経緯を慌てて文章にまとめました。いやはや、レポートも論文も同じ調子で書き上げて仕舞えば楽なのですがね…。ここまででURL等含めてるとはいえ2000字超えてますからね。

こうやって書き上げると、モヤモヤした気分が幾分すっきりしました。とはいえ、自分のしたいこと(消費活動)がちゃんとできてるのか、という不安は拭いきれませんね。

万が一これを読んでる方がいたら、ここまで付き合って頂きありがとうございます。